2004.12.07

趣味とプライド(長文ごたくキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!)

 Blogモデラー(モデラーBlogger)すず黄さんの「湯けむり模型日記」で、興味深いお話がありました。
 趣味の「敷居を下げる」ことに関する話題でありました。
 年末の風物詩である第九合唱における他の団員の志の低さを憂う方のお話と、模型というジャンル論を絡めた大変ぐさりと来るお話です。 

 音楽と言えば、私は20年来吹奏楽というヤツに関わっています。最初の十数年は一奏者として、近年は演奏の傍ら指導者、指揮者、編曲者としても活動しています(下手の横好きというヤツですが)。

 そこで、私も音楽をやってるということで、文中の合唱団氏の切なさには身につまされる思いがあったのですよ。
 モデラーとしてもジャンルの未来には関心を持たずにはいられません。
 (関係ない?あーもうだから、そういうこというヤツ、おまえみたいなのが憂慮されてるの!)
 しかも、ちょっと懐かしくも痛い話を別のオタクジャンルで思い出したんですよ。
 そう、RPGブームっすよ。ドラクエだのFFだのといったコンピュータRPGじゃないですよ?元祖元来本来本家本元のロールプレイングゲーム(Wikipediaより)ですよ?(ファイナルファイト? そ れ も 違 う

 吹奏楽の例から行きますが、多くのバンドと同じく、私のやっている所の場合はオリジナル作品を作って演奏するということはほとんどありません。
 既存の曲を既存の楽譜を使って、場合によっては既存の曲を編曲し直して楽譜を起こし、演奏することになります。
 そして、どんな曲でも楽譜通りに正確に演奏するためには、それなりの技術が必要です。
 正しく演奏できない人は、曲の再現という点ではダメなのです。
 クラシックでは特に「原曲」「楽譜通り」「曲の指定テンポ」「指揮者の解釈」と言った、いわば『錦の御旗』金科玉条が存在します。
 「まず楽譜通りに吹けるようになってからモノ言えやゴルァ」
 「音楽性がどうこう言う前に音程合ってねえんだよこの音痴ッ」
 「おまえ一人リズムずれてんだよ指揮よく見ろボケェ」

 全く仰るとおりであり、天才ではない我々アマチュア奏者に対して重くのしかかってくる現実です。

 すず黄さんのご友人である合唱団氏は、その錦の御旗すら破り捨てられそうなのですから事態は深刻です。

 「作曲者の意図の再現」これは模型で言うところの「正確なプロポーション、ディテールの再現」に相当します。
 技術的に稚拙な人にとっては、正しい音程で吹く、歌であればきちんと声が出る、それだけでも精一杯でしょう。
 しかし、合唱団氏の「合唱を歌う人ならわかると思うけれど、声が出るようになると、壁を乗り越えた気持ちになって、すごく歌うことが楽しくなるんですよ」という言葉の通り、技術が向上して或る一定の技術レベルに達すると「表現」という名の新たな地平が出現するのですよ。
 模型の場合は自分の技術レベルの向上と同時に「省略」とか「それらしくごまかす」などの手法もありますが、これも技術の一つです。音楽で言うところの「アドリブ」に相当します。どちらも「それらしい」と「自分勝手」が大いに違っているという点で共通してますね。

 また、技術がある人にとって楽譜とは以外と大雑把なモノに見えるのです。
 装飾音符をどのタイミングで繰り出すのか?スタッカートの長さは?テンポはどれぐらい揺らすのか?ゲネラルパウゼ(全休止)はいつまで?エクスプレッションはどうかけるの?音量変化はどんな曲線で?
 或るレベルに達すると、かえって自由にやれるようになるのです。

 一方、何よりも「下手である」ことは「無様」であり「恥ずかしい」ことであるはずなのです。だから練習するんでしょ?ボクは「ただ続けてただけ」「上手に出来るとうれしいから、それだけ」というようなきれい事を認めません。ボクがサックス(サクソフォーンですよ!)を必死で練習したのは「女にモテたいから」「下手だといつまでたっても舎弟だから」という重大な理由があったことを否定しません。それがすべてではなく、またどこにでも許容範囲はありますけれどね。
 
 今話題になっている問題は「できないひと」が「できるひと」に対して「もっと(自分たちが)自由に(て言うかいい加減にできる形で)やろうよ」「そんなに(僕らが)頑張らなくてもいい(むしろ頑張るのは辛いからダメ)じゃん」と言い始めていることです。 
 
 一般論を展開してみます。
 結局、そうやって「敷居を引き下げる」ことを求める人たちの多くは、楽をして利益だけを得たい、もっと正確に言えば自分が努力することによってそのジャンル全体に寄与しようと言う意識が全くない人たちです。
 いわゆる、「お客様」ですね。自分がもてなされることを信じて疑わず、寄食先への負担をあまり考えず、むしろ「訪れてやった」意識の強い人たちです。
 彼らは自分が初心者としてもてなされている間は、割と低姿勢に物事を教わり自分がそこに参加できるだけで喜ぶ無邪気な存在でいられます。ところが、或る程度自分に自信がついて、周囲を見回す余裕が出てくると、自分が技能的に、あるいはセンスの面で多くの場数を踏んだ先人たちと比べて強烈に劣っていることを否応なしに意識させられるようになります。
 前向きな人は、自分と彼らの相違を分析し、反発するにせよ追随するにせよ自分を向上させてその意識を満足させようとします。この心理は必然的に現在の自分の能力を把握することにつながりますし、自分の選んだジャンル自体を研究する動機となるので、この人たちは、むしろジャンルを活性化する要因になります。
 オーソドックスな手法に対する反発がオリジナリティを呼ぶ場合もありますし、革命勢力の出現により保守派が奮起する場合もあるからです。

 問題なのは後ろ向きな人、そして向上するのが難しい、はっきり言えば「向いていない」人々です。
 楽器や歌だけでなく、どんな趣味であれ、一通りのことが出来るようになるまでは練習が必要で、時間がかかります。先ほどの例、楽器であれば何でも音を出せばいいと言うのは数分で可能ですが、正しい音程を出せる、あるいは多くの曲を正しいテンポで演奏出来るレベルに達するには数ヶ月、場合によっては数年かかります。
 模型に関しても、我々が幼少の頃から脈々と築き上げてきた石油製品の浪費物の山を見れば、技術習得にかかるコストは明白です。
 しかし!彼らは自分がそれだけの間を後進でいることに我慢がなりません。まして先達から技術の欠如を指摘されると反論できないだけに、別の方法で劣等感(とハッキリ言っちゃいます)を埋めようとするのです。
 つまり、自分たちが向上できないのであれば、手っ取り早く先達になる方法を選びます。
 そう、「敷居を下げ」て「初心者を呼び込む」ことによって『自分たちより低レベルな』存在を増やそうとするのです。

 きっと彼らは、たぶん実際に敷居が下がって、より低レベルな参加者が参入してきたとたん、レベルの低下を嘆き始めるのではないでしょうか。さもなくば先輩面をして、初心者たちに自分たちと同じような劣等感を味わわせ、自分の劣化コピーを再生産し始めるのです。
 その連鎖が動き始めると、そのジャンルは見かけ上拡大の一途をたどりますが、全体のレベルはみるみるうちに低下していきます。
 全体のレベルが低下し、見るべき人材が乏しくなると、既に確かな技術を持つ者は寄り集まってエリート集団を形成します。プロ化する場合もありますし、少数精鋭主義で後進の育成とノウハウの継承を図る者も出てきます。 ところが不幸にして初心者たちの多くは、ちょっとだけ先輩なだけの未熟者に出会ってしまうことの方が多いのです。
 そのころには最初に敷居を下げることを主導してきた者は、全体から見れば中位の層に位置するようになっています。実力見識はさほど向上していませんが、形の上では立派な先輩です。彼らの前には彼らが呼び込んだ、彼らが責任を持って教え導くべき初心者たちの大群が待ち受けています。
 ところが、自分自身が最低限必要なレベルに達していない段階で後進を迎えてしまった彼らには教えるべきノウハウがありません。見よう見まねのポーズがあるだけです。
 当然、彼らが求めたような楽しさを得る機会は次第に希少になり(人を見る目のある先人たちは、とっくに彼らを見限っています)、先輩として見られる負担と、やってもやっても上手にできない悔しさだけを抱え込むことになります。
 また、熱意と学習能力を備えた初心者が、急速に技術をつけて彼らを追い抜いてゆくことも彼らの底の浅いプライドを逆撫でするでしょう。

 ここで読者の皆さんに思い出して欲しいことは、彼らはそもそも「お客様」だったということです。
 客というのは、自分が楽しくなければ逃げていってしまい、二度と寄りつかないものです。
 彼らは自分が(彼らのレベルで)楽しみ、そして趣味の世界で一目置かれたいという願望、あるいは身勝手な自分を受け入れてくれる場所を求める気持ちだけで動いてきた人々です。自分たちのやっていることに対する深い考察も、ジャンルを愛する気持ちも薄いのです。つまらなければ簡単に投げ出すことが出来ます。今まで自分が楽しめてきた背景には、自分たちの前にジャンルを確立してきた多くのエキスパートたちの努力と、人間的に優れた人々の思いやりがあったのだとは決して気づくことなく、「○○はもうダメだ」「終わってる」などと言いながら次の寄生先に群がっていくのです。
 さて、彼らが去った後に残された、広げるだけ広げた戸口から呼び込まれた初心者の集団と、それを押しつけられたエンスー達の立場はどうなるのでしょうか?
 
 では、前述の別ジャンル、RPGの話をしましょう。
 日本のオタク層の中で90年代前半にピークを迎えたRPGブームが急速に衰退した原因の一つに、「敷居を下げすぎた」ことがあると私は考えています。
(再掲:参考リンク)Wikipediaロールプレイングゲーム
 粗製濫造されるシステムは短絡的なゲーム性とクソオタ向けのキッチュなビジュアルデザイン、低俗で底の浅い物語性といったもののみを追求し、ロールプレイという知的作業が本来持っている根源的な魅力を磨き上げることを怠ってしまいました。
 それによってRPGという娯楽が大いに広げて行けたはずの、ゲームを通じて人間性と向き合うこと、キャラクターを動かすことで自分の行為を客観的に判断し考察することを求められる独特の体験、複数の人間によって即興的に作り上げられるドラマ(その多くはゲームシステムとは関わりない部分で生まれました)、キャラクターを掘り下げることによって現実世界と同様の決断やそのジレンマを味わう楽しさと言った部分を熟成させていくことができませんでした。
 RPGが「大人の趣味」になれなかったのは、オタクの趣味だったからでもなく、社会的に認知されなかったからではありません。
 子供が増えすぎて、大人になろうとする人たちが蹂躙され磨り潰されてしまっただけなのです。
 
 さて、これだけの長広舌をふるった後で、本来の話題である模型に関してはどう考えるべきでしょうか?
 模型というものが非常に息の長い趣味であり得た理由として、「個人でできる」ものであることです。
 一人で扱える大きさで作っている限り、誰か他の人がいなければ完成させられないものはありません。時間は必要でしょうけれど。
 たとえメーカーが全滅しても、やる気と工作技術のある人は木を削って塩ビでキャノピーをプレスした飛行機を作り、図面通りに切ったボール紙を折り曲げニスで固めて鉄道模型を作り、ブリキを曲げてニューム管を通し鉛板を張ってと戦車を作るでしょう。
 まして、今やプラモデルの世界は、鉄道模型に20年ほど遅れてアイテムとマテリアルの飽和時代を迎えています。
 新製品がデカール替えだっていいじゃないですか。デカールと箱絵だけの価値をどう見るかだけの問題です。
 これだけ充実した趣味を持っていて、何の不満があるでしょうか。

 あとは、孤独に耐えるだけのものを私たちが持っているかでしょう?対象に対する愛?技術に対する誇り?物作りへの情熱?何でもいいでしょうが、目的と手段を見失ってはいけません。
 
 私は、模型を作っている時の自分が好きです。上手に出来た時の喜ばしさは格別です。失敗の悔しさも愛の裏返しです。どの完成品も、作りかけのキットも、私にしか作れない、二度と再現できない作品です。
 趣味の目的はあくまでも自己実現であって、その手段の一つとして、個人的に模型を選んでいるだけのことです。誰かにほめてもらったり甘ったるい友達関係を作るとか言った目的でやっているのではありません。
 プラモデルや吹奏楽をホビーの王道にするためにやる、業界の裾野を広げるなんて言う使命感はかけらもありません。ましてルサンチマンを紛らわす方便としてやれるほど暇人ではありません。主張できるモノがプラモデルしかないからやっている情けない人間になるつもりもありません。
 音楽だって同じことで、単に音楽が好きなだけであって、聞くだけでなく自ら奏で表現することが、出来れば美しい音でやることができればその方が楽しいからです。
 模型は一人で作れますが、バンドは一人では出来ないですし、RPGだってそれと同じです。
 女の子と同じで、趣味の世界も一つ一つ性格が違うのです。集団の中にいても、大切なのは自分の意識です。

 「第九」の件も論じておきます。
 「上手くなるために頑張ろうなんてそんな姿勢が見えたら、誰も仲間にはならない」
 ナンセンス極まれりです。合唱団が「上手くなるために頑張る」のではありません。合唱団は「第九」を歌うという目的に「必要なことをする」だけなのです。
 上手くなるために頑張らなければならないのは、合唱団ではなく、「合唱が出来ないヘタクソ野郎一個人」だけです。つまり、「自分だけ下手」で「でも努力はしたくない」から、合唱団の問題にすり替えているだけなのです。
 個人の問題を集団全体に格上げしては行けません。
 本来やろうとしていたことに賛同したひとが「仲間」なのです。「敷居を低くして」方針を変更したことで入ってくる人は、求めているモノが違う人です。はき違えてはいけません。
 仲間がいなければ合唱は出来ません。吹奏楽でもその問題は常にあります。だからといって編成を変えてリコーダーやアコーディオン、ピアニカと言った楽器を加えた合奏団にしようとは思いません。吹奏楽がやりたいんです。
 「敷居を低く」しようとしている人は自分がきちんと歌えないから歌の方を変えようとしているだけで、それをごまかす方便に敷居とか仲間とかを持ち出しているのではないですか。努力したくないから目的を変更するだけであって、まさに本末転倒というモノであります。
 彼らは、何のためにそこにいるんでしょうね?

 あ、模型に関する不満が一つありました。
 「…どうしてオレ、こんなに不器用なのかネーっ!」
 ズッ

(12/8追記)
 論点がわかりにくいところがあったので、表記が統一されていないところを直すついでに文の順序を変えたり少し補筆したりしましたよん。

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